チェンソーマン2部がつまらないと言われる本当の理由|学園編の魅力を再発見する
2025年 10月 13日
「チェンソーマン2部 つまらない」――この検索ワードを打ち込んだあなたは、おそらく第一部の熱狂的なファンだったはずです。毎週ジャンプを楽しみにし、デンジやパワー、アキの活躍に心を躍らせていた。でも、学園編に入ってから何かが違う。そう感じているのは、あなただけではありません。
実際、単行本の売上データを見ると、第一部完結の11巻(328,151部)と比較して、最新22巻(62,515部)は約5分の1以下に激減しています。SNSでも「展開が遅い」「デンジが別人」「新キャラに魅力がない」という声が目立ちます。
しかし、本当に第二部は「失敗作」なのでしょうか?
この記事では、多くの読者が感じている違和感の正体を徹底分析しながら、見落とされがちな学園編の真の魅力についても掘り下げていきます。批判的な視点と肯定的な視点、両方を提示することで、あなた自身の答えを見つける手助けができればと思います。
なぜ「つまらない」と感じるのか?読者の本音を5つの視点から分析
1. デンジの変化――「あの頃のデンジ」はどこへ?
第一部のデンジは、欲望に忠実で、命がけで「普通の生活」を目指す姿が痛々しくも魅力的でした。「胸を揉みたい」「マキマとHしたい」という単純明快な目標が、読者を引き込む原動力になっていました。
ところが第二部では、デンジは目標だった「ナユタとの平穏な日常」をすでに手に入れています。読者が**「狂気的な面白さ」を期待する一方で、デンジ本人はもう「必死に生き残ろうとする段階」**を卒業してしまったわけです。
その結果、彼は無気力に見える。口を半開きにした表情が増え、かつての勢いが感じられません。Yahoo!知恵袋のあるユーザーは「1部と比べるとつまらなく見える」と率直に述べています。
パワーとアキの不在も決定的です。彼らはデンジの言動を増幅させ、感情を代弁してくれる存在でした。その「感情の緩衝材」がいない第二部では、吉田ヒロフミやフミコといった謎めいたキャラばかりが登場します。誰を信じていいか分からない、どこに感情を託していいか分からない――この物語の「不安定さ」が、読者にとっての「面白くない」「ゴチャゴチャしている」という感覚に繋がっているはずです。
2. 新キャラクターの魅力不足――「深み」が感じられない
第一部は本当に魅力的なキャラが溢れていました。デザインが良いことに加え、パワーやアキ、姫野やレゼ、天使達は短いながらもグッとくる背景描写があり、いわゆる〝キャラ立て〟がしっかりしていました。
第二部の主な新キャラ(166話時点)を見てみましょう:
アサ(ヨル)
コケピー
ユウコ
飢餓の悪魔
伊勢海
ノバナ
亜国
落下の悪魔
正義の悪魔
三船フミコ
釘の魔人
正直に言えば、微妙です。アサヨルと飢餓、落下の悪魔は作者が最も力を入れて描いたメインキャラである為、デザイン的には好きなのですが、その他のキャラには感情移入もできなければ、大して魅力も感じていません。
なぜなら、ほとんどのキャラが明確な目標や背景、共感できる価値観や葛藤、成長が全く描かれてないからです。
序盤の重要ポジションであるユウコでさえ、彼女の言動に一切共感できず、アサとのやり取りに相当な時間を割いたものの、掘り下げ役としては今ひとつ働きが弱かったように感じます。
Yahoo!知恵袋では「よくわからないキャラ出すくらいならいっそ岸部やレゼ、コベニなど使った方が面白いのでは…?」という意見が見られました。まさにその通りで、場当たり的に配置された無味無臭のキャラがいくら登場したところで、作品の魅力が深まるはずがありません。
3. 展開の遅さ――「週刊連載」と「内省キャラ」の相性問題
「話が進まない」「展開が遅い」という批判は、特に隔週連載が続く中で切実に感じられます。
第一部の魅力のひとつにテンポの良さが挙げられます。小気味のいい会話とサクサク進む展開、キャラが死んでも過去回想は最小限に抑え、物語が進むことを優先していた印象です。
第二部は現時点で98〜166話、話数にして69話分。これを単純に第一部に話数のみ置き換えてみると、闇の悪魔の力を得たサンタクロースがデンジと闘ってる回、単行本でいえば8巻の終盤に相当します。
いや遅ェ……第二部めっちゃ遅ェ……
第一部のめまぐるしい展開と比較して、第二部は明らかに物語が進むのが遅い。その割に最大の謎とされる偽チェンソーマンの正体すら全く分からないままという……
なぜこんなにも展開が遅くなってしまったのか?
それは、アサとデンジの心理描写を丁寧すぎる程に描いているからです。
三鷹アサは、自己評価が極端に低く、ネガティブな感情を抱えやすい、非常に人間的なキャラクターです。彼女の物語は、デンジのように「戦いに行くぞ!」という行動ではなく、「どう感じるか」「どう乗り越えるか」という内面描写に多くの紙面が割かれます。彼女の成長は遅々としていて、それが現実の青春に近いのかもしれません。
ですが、毎週/隔週で少しずつ読んでいる私たちからすると、この「内省的な主人公」の展開はテンポが悪く感じてしまう。これは、作品のクオリティの問題ではなく、読み方(フォーマット)とテーマの相性の問題かもしれません。コミックスで一気に読めば、違った感想になる可能性が高いでしょう。
あるユーザーは「1部だと1話でだだだだだんと進んでた(語彙力なくてすいません)のが、3.4話かけてだ、だだ、だだ、んって感じな気がします」と表現していました。まさにこの感覚です。
4. 作画の劣化――失われた「圧倒的な迫力」
第二部に入り、キャラの線が雑になり、見開き画も大幅に迫力が失われたと感じています。
特に15巻あたりから、キャラの輪郭がまるでサインペンで描いたような太くカクカクした線となりました。作者が描く線は細いものの、繊細さと荒々しさがシーン毎に上手く使い分けられ、だからこそ登場人物の感情の揺れ、心情がダイレクトに読者に伝わることが強みだと感じていたのですが、それらとは真逆の道を辿るようになりました。
また、第一部のコウモリ戦、永遠の悪魔戦、サンタクロース戦、レゼ戦等で見られた、圧倒的な書き込みと立体感ある構図、演出が今や見る影もありません。
なぜこれらの作画の大幅な劣化が起きてしまったのか?
よくネットで言われている、アニメが不評の為、作者のモチベが低下したことも原因としてあるのかも分かりません。
しかし、間違いなく言えることは、元アシスタントであるダンダダンの作者が抜けてしまったことでしょう。
ダンダダンを読んでいると、チェンソーマン第一部において、「この背景や見開きを描いてもらってたんだな」ということが素人目でもハッキリと分かります。ダンダダン自体にも賛否両論があるものの、その圧倒的な画力は誰もが認めるところです。ダンダダン作者が描く背景、見開きは書き込み量が半端無いので、第二部は相対的に物足りなく見えてしまいます。
5. 性的描写の扱い方――「下ネタ」から「不快感」へ
これは最近だと三船フミコがデンジの股間を触る描写と、166話のデンジのセリフが顕著である。
もちろんそれぞれギャグ描写だとは分かっているのだが、一体何回「チ●チ●」や「セ●クス」という単語を乱用するのだろうか?
もはや登場する度に下ネタを言わなければならない、「制約と誓約」を自らに課してるのだろうか?
いや、高校生だからそういう発想や発言自体は悪いことではないのだが、あまりにもその描写がしつこすぎると、作者の作為ばかりが際立ち、読者は引いて寒くなるだけである。
「チ●チ●」を連呼して笑うのなんて小学生だけでは?
もちろん第一部にも下ネタはあったのだが、比較的それらが苦手な読者層にもシリアスな展開の前後に挟まれる小ネタとして、抵抗なく受け入れられていた印象だった。
第二部はとにかく下ネタ描写が直接的且つ露骨に繰り返され、ギャグとしても全く面白くなく、単なる「デンジに下ネタを言わせればバズルんじゃね?」的なノリで、作者の作為しか感じられず読んでて辟易する。
デンジが己の性欲に負けるワンパターン展開を一体何回擦り続けるんだろうか?
見落とされている学園編の本当の価値
ここまで批判的な視点を述べてきましたが、実は学園編には多くの読者が見落としている重要なテーマがあります。
デンジの「2つの夢」という核心的な葛藤
多くの読者が「デンジはパワーを探すべきだ」と主張します。確かに91話でパワーと契約を交わしました。しかし、デンジにとって最も大切な契約を忘れていませんか?
ポチタとの契約です。
ポチタと交わした契約は、「デンジの夢をポチタに見せること」。そしてデンジの夢とは「普通の暮らしをして、普通の死に方をしてほしい」です。これは1巻1話の回想で描かれています。
そしてこの契約は学園編においても続いていることが、心臓となったポチタに問いかけるシーン(134話)でも確認できます。
悪魔との契約の重大さを認識しているのならば、パワーとの契約は重視するのにポチタとの契約を無視してしまうのはおかしいと私は思います。
実は、学園編の核心的なテーマは**「普通の暮らしを送りたい」という夢と「チェンソーマンになって女の子からモテたい」という夢は両立できないのでは?**という問いなのです。
公安編では、デンジはチェンソーマンになることを公安から禁じられてしまいます(133-134話)。チェンソーマンになれない。これはデンジにとってある意味ではチャンスでもありました。なぜなら、普通の暮らしを送るにはチェンソーマンになってしまってはいけないからです。
彼は普通の暮らしを送ることで満足なはずだと思い込もうとしました。しかし、デンジはチェンソーマンになることを諦めきれなかった。普通の暮らしだけでは満足できなかったのです。
そして、住んでいるアパートへの放火によって衆人環視のなかチェンソーマンへと変身してしまう。その結果、普通の暮らしの象徴でもあるナユタとペットたちを失うことになってしまったわけです。
夢の次(チェンソーマンになりたい)を求めてしまったがゆえに、すでに手に入れた夢を失う結果となってしまった――これが17巻までの展開です。
166話の真の重要性――デンジの自覚と後悔
そして166話「雨・ソープ・切断」。この回で、デンジは初めて自分が性欲に振り回されていることを自覚し、手に入れていた普通の生活がめちゃくちゃになってしまったと後悔しているのです。
公安編の終盤ですらチェンソーマンとして立ち上がることを決意したきっかけは性欲なのですから、この回における彼の自省が「チェンソーマン」という物語全体の大きな転換点になっていることは明らかです。
この回はデンジが自分の生き方の変更を迫られていると言えます。彼が言っている通り、「笑い事ではない」わけです。
そして、次回の展開次第では二度とチェンソーマンとして立ち上がれないかもしれないという意味でも重要な回というわけです。
「つまらない」と感じる読者の心理――ある仮説
ここで一つの仮説を提示したいと思います。学園編に不満を持つ多くの読者は、実は「チェンソーマンに興味があるのであって、デンジには興味がない」のではないでしょうか。
これで彼らの批判が一気に理解できるようになります:
話が進まない→チェンソーマンという存在の謎に関する話が見たい
デンジが別人に→チェンソーマンとなって大暴れするところが見たいからデンジの葛藤なんていらない
面白くない→チェンソーマンの活躍が見たい
興味深いことに、学園編にはこれと似たようなキャラクターが登場します。バルエムです。
彼はチェンソーマンが暴れることにしか興味がなく、デンジが平和な生活を送っていることに怒りを覚えているキャラです(140話、147話、151話)。
藤本タツキ先生がどこまで意識しているかは分かりませんが、不思議なほど共通点が多いなという印象です。
最後に――学園編をどう読むべきか
チェンソーマン学園編は、人間としてのデンジが自分の夢に対して葛藤をいだいた様子を描いた作品であり、公安編とは違う魅力を持っていると断言できます。
それに対してどういう感想を抱くかは自由だとは思います。しかし、デンジは決してチェンソーマンの付属品ではなく、一人の人間だということは心に留めてほしいのです。
確かに展開は遅く、新キャラの魅力不足、作画の劣化、性的描写の扱い方など、批判すべき点は多々あります。単行本売上の激減という数字も、それを裏付けています。実際、他の人気作品でも同様の批判が見られることから、読者の期待値とのギャップは現代のマンガ連載における共通の課題と言えるでしょう。
しかし、「つまらない」と切り捨てる前に、もう一度考えてみてください。あなたが求めているのは「チェンソーマンの物語」ですか? それとも「デンジという人間の物語」ですか?
学園編は、第一部のような爽快なアクションやテンポの良さを犠牲にして、より深い人間ドラマを描こうとしています。それが成功しているかどうかは評価が分かれるところですが、少なくとも作者の意図を理解した上で判断することが、作品への誠実な向き合い方ではないでしょうか。
あなたは学園編をどう読みますか? コメント欄であなたの率直な意見を聞かせてください。




